第二章
  ジェイムズ経験論の中心思想

第四節 経験の連続性


 われわれが認識の問題に目をむけ、そこにおける意識や考えを重視する立場をつらぬく時における批判の代表的なものは、それが主観主義におちいっているということであろう。ジェイムズの根本的経験論が非難的に唯我論solipcismといわれるのもそのためである。たしかに純粋経験が意識や考えの流れをさし示していてそれ以外のなにものも信じないというのであれば、その批判は正しいかもしれない。だが前節において少しばかり予知されている如く、純粋経験説が方法論の公準であり、われわれの経験の最初に出会う事実にすぎないことを思いおこせば、純粋経験説から結果する内容は単に唯我論的傾向を示している以外に、他の多様の事実をも含んでいる点にわれわれは気づくであろう。
 実は純粋経験の原理をただそれだけの見地からとらえることは純粋経験についてわれわれが何も知らないのと同じである。それはただ考えの流れがあり、意識がばくぜんと存在しているという事実のみを伝えるだけである。ところがジェイムズにおいては純粋経験はただ単に存在している点のみが強調されているのではなく、われわれに報告され、知らされるという特徴を有しているのである。
 この見方は前節の最後に述べられたように意識が因果的有効性をもっているという考え方をひき継いでいるのである。従って考えの流続性ないしは意識の流動性がわれわれにとっての経験の連続性であるといわれうるためには、意識の因果性がわれわれに問題とされるほど発揮されているや否やにかかっているだろう。これは意識の流れのどこにおいてわれわれが活動として語りうるところのものがみいだされるかという設問と同義であろう。なぜならば活動の経験が認められる段階においては、活動は明確にわれわれの客観的事実としてうけとられているのであり、且つそれがわれわれの経験としてうけとられた場合、意識がそれに影響を及ぼしていると判断するのは間違っていないからである。
 それではわれわれにとって活動とはいかなる意味をもっているのか。ジェイムズは活動をプラグマティックな方法においてとらえている。いいかえれば「実在的活動が何の活動であるかの問題はその現実的結果は何であるかの問題に等しい」
(1)の考え方にたっている。(一)
 まず彼にあっては活動とは活動の経験であり、それ故われわれの活動の感じなのである。その感じをわれわれは生命という感じにおいてみいだしている。活動感 the sense of activity とは生命感 the sense of life の意である。この動かしがたい事実はなにかが進行しているところに活動があるという主張を明白にしている。それが活動の意味するすべてなのであり、あるいは逆にもしわれわれの世界が「何も起こっていないもの nothing happening」、「何も変化していないもの nothing changing」、「何もなしていないもの nothing doing」として叙述されるならば、ただちにそれを「非活動的な世界」とよばせる効果を及ぼすところのものである。なぜならばそのような世界とは生命感のない無変化の世界であるからである。生命感とは変化の事実のなまの感じである。逆に変化の事実は生命そのものの存在を示している。変化が起こっているということは全体からみれば経験の一局面、具体的には、前節でのべられたように、結合的関係の感じとしての接続的対象が活動を始め、われわれ自身の主観的生命を感じさせたということなのである。
 それでは具体的に実在的活動とは何であるか。われわれは前に根本的経験論においては存在の中に実在的創造的活動があれば、それはどこかで直接体験されねばならないという命題を公準としてもっていたことを知った。ここではそれが大いに関係してくる。即ちわれわれの世界においてはわれわれの前に生じる活動形態はその姿そのままに体験へともたらしているのである。活動形態とは活動を現金価値としてみた姿をさしている。(二)そして根本的経験論は活動のそのような見方を要求しているにすぎないのである。しかも活動の現金価値はわれわれのすべての行動と無関係には考えられない。活動としての現象しているところのものはわれわれの全体性の表現である。われわれはいくたの傾向、意欲、関心、目的の錯綜した行動をなしている。それらは決して主観的世界のなかに蟄居しているものではない。むしろそれらの存在については内的葛藤を経た後のわれわれの行動的結実として現象しているが故に認められているのである。
 そこには様々な過程があり、その過程に障害があれば抵抗し、苦痛と快感のいずれかの結果をともなってわれわれをなんらかの方向へかりたてる。活動という言葉はこのように「過程、障害、努力、緊張、解放の諸経験、即ちわれわれに知られるべく与えられた生についてある如く究極的性質の諸経験、以外に何も想像すべき内容をもっていない」(2)のである。こういった態度の中においてわれわれが一つの活動の事実を事実としてみるならば、その事実を生じさせ、その事実に至らしめたと考えられる力を想定したとしても、またその力そのものをその活動のなされている姿のまっただなかにおいて感じとったとしても、それはなんら不思議ではないだろう。
 因果性が活動の中に働いているという考え方は主知主義者には不可解にみえるかもしれない。なぜならば彼は彼なりに活動の感じなるものの存在を別の形で信じているからである。彼にとっては、たとえばブラッドレーがいうように「活動の感覚・感情・感じは……活動の経験ではない。それはその中では反省によって活動の観念をえることができないところの、とじこめられた単なる感覚である……。この経験が後にわれわれの活動の知覚や観念に本質的な性格に基づいていようが、いまいが、それが最初にあらわれる場合には決してそれ自身活動の経験ではない。それは最初にあらわれる場合にはただ外的な理由のために、そして外側の観察者のために活動であるにすぎない」(三)なる判断のもとに活動の感じは活動の経験から分離されてしまっているのである。
 しかしながらジェイムズにあってはあたかも活動の不滅的存在があってそこから活動の経験が導出されるとは考えられていないのである。感じ即ち経験であるが故に活動はわれわれであるところの人間における身体的運動を通じて、それ故に人格の発露を通じて、とらえられることができるのである。われわれの経験された世界ないしは意識野は視覚の中心、動作の中心、関心の中心など常にわれわれの身体を中心としてあらわれる。この結果作用を重視するならば、われわれは活動が意識の因果的有効性と密接な関係にあると判断しても、いささかの問題とはならないのである。 つまりここで視点を変えていうならば、考えの流れ、われわれの意識状態は決して単に主観的にのみあるのではなく、われわれの活動として現象している諸事実から判断されれば、それはなんらかの因果的有効性をもっていると考えられてもよい、ということである。
 それは具体的結果があきらかである場合にはその原因と考えられる対象には因果的有効性があるということと同義である。従ってここではヒュームのように原因が及ぼすと推定せられる「力の効力」の明確なる知覚像を求めて失敗する事態にもおちいらず、カントのように原因として考えられた非合理的な物自体にすがる必要もないのである。
 そこでわれわれは元に戻って経験の連続性について考察の目をむけよう。この点をあきらかにするにあたっても、すでにわれわれは経験へと結びつける意識の因果的有効性を信じているのであるから、意識の諸状態の内容の吟味をすることによって、いわゆる経験の連続性なるものがあきらかにされうると考えてよいだろう。
 さてその意識とはわれわれにとっていかなる状態を示しているのか。われわれは前節において意識に内的自発性があり、運動に至らしめるエネルギーをそれ自身において所有しているといういい方をした。客観的にはそれの意味しているところのものは、意識が自由に関係しあい、また結合しあうという働きを示しているということではあるまいか。否それよりもむしろ何が結合し、何が結合せられているかは判然としないほど、意識の豊富なディテールをもち且つ複合的であるということではあるまいか。
 両者の表現はプラグマティックには同一の事実を示している。それは意識がなんらかの形で作用しており、常になんらかの状態において認められているという以外のなにものも伝えていない。だが厳密に考えれば両者は異なっている。意識はなるほど生命感を自覚させるものではあるが、前者においては意識の積極性を前面におしだしている。そこでは意識は力であり、行為の主体者である。そしてなんら外から規定されることなく、生命の存在を意識の選択的力の発露としてとらえる。その行為の過程は反省的であるというよりは衝動的である。この衝動は生命からの衝動である限りにおいては持続的である。なぜならば意識は断じて知的につくりあげられた実体ではなく、われわれの生の感覚をして選択器官たらしめているものだからである。
 従って意識は機能しえる限り、そのなすところのものは単に認識、識別、比較の作用であるばかりではなく、それをこえたなにか、いいかえればみずからの選択的行為なのである。そうであるからして残念にも精神の方は完全な心像をつくりえない場合には、それに対応すると考えられる対象を無視せざるをえないが、意識の方はさだかならぬ対象をも厳然と容認し、それを可感的対象としてみるのである。
 他方、意識の複合的状態の肯定は意識が決して単純な事実ではなく、われわれの精神すらもそれについての正確な記述の不可能な多様性をもっていることを表明している。これは一言でいうならば意識は生命感そのものの覚知的結果としてあらわれているにすぎず、従って意識の存在についての主知主義的な定義は不正確である点を正直に伝えている。
 ジェイムズにとっては意識はたとえ単純的な存在として、そしてかすかな力しか感じさせない微細な部分として考えられたとしても、それはそれだけで他と見おとりなく対等に存在しているのである。そしてそれが生命現象である限りにおいては、一寸の虫の如き存在であっても単純化しえない躍動性をもっているのであり、潜在的に、規定される以上の存在のディテールを外にあらしめる、とみなされるのである。この点を特に強調するのが、ジェイムズのいう如く、意識が内的自発性でもって流続するという表現であるといわれよう。
 意識の複合性は消極的な意味においては意識が単一ではなく、また単一なものとしても規定されない、の意である。そして積極的には意識が生命感の具体的証左であるが故に記述をこえた豊饒さを保ち、それ故に霊的な認識者をよびよせる必要もなき機能をそれ自身において所有していることをあらわしている。
 もっとも注意してみればここでもジェイムズの意識に対する観点が二つある点に気づかれなければならない。それは一方では意識が結合的関係において連続しているという観点であり、他方は結合関係を認めぬほどに連続性を強調する観点である。しかしこのことは言語的に矛盾した表現であるも、意味しているところのものは同じである。われわれは前者が主知主義的表現であり、後者が主意主義的表現であることの違いだけでもって、ジェイムズの論理的矛盾を責めることはできないであろう。そこでそういったわれわれの態度に落着きを与えるためにもわれわれは意識の複合的状態についてのジェイムズの考えをさらにつっこんで考える必要があるといえよう。
 まず注意されるべきはジェイムズにおいては意識の複合的状態(従って複雑な心的状態)は決して観念複合説や化合物のアナロジーによって説明されないところの異なった意味を包摂している点である。それは何を意味しているのであるか。観念連合説によれば「複雑な心的状態はより単純な状態の自己複合の結果物である」
(3)という言葉がすべてを伝える根拠になっている。観念連合論者は大体の場合精神の中に魂とか自我とかあるいはそれらに類似した統一原理をアプリオリには認めようとはしない考え方を前提にする。それ故にヒュームの場合のように「精神-素材mind-stuffや精神-塵mind-dustの原始的な単位は複合し、且つまた複合するという継続的な行程において自らを総計するものとしてあらわされ、そしてこのようにしてわれわれの精神のより高級でより複雑な状態を生ぜしめるものとしてあらわされていた」(4)のである。
 それをジェイムズは次のようにパターン化している。「Aの要素的感じとBの要素的感じがある状況において生じる時……A+Bの感じに結合する。そしてこの感じが同様にして生まれたC+Dの感じと結合し、最後には、なんらその証人となる他の原理ないしはいくつかのアルファベット全体が察知の一領域の中に一緒になってあらわれうる。それら感じの各々がばらばらに目撃するものをそれらの『全体all』が同時発生的に目撃していると想定せられているのである。しかしそれらの配分的な知識を生ぜしめるのではなく、それが集合的知識なのである。『一緒にされた』低級な意識形態がより高級な意識形態なのである。より高級なそれは『独自にとりあげられた場合』無からなりたち、そしてより低級なそれら以外のなにものでもないのである。」
(5)
 このような「精神-素材」説がより高級な心的状態をより低級な心的状態の総計と同一であるとみなすことによってより高級な心的形態の構成を説明しうるかどうかについて推論している限りにおいて、ジェイムズはそれを論理的には無意味であり実用的には不必要であるという理由から積極的には支持しない。ジェイムズの考えはたとえばアルファベットの意識についてそれは二十六の単純な意識の総計ではなく、二十七番目の事実としてとりあつかう方が安全であるという。
 これについて水を例にあげてみよう。水は科学的にH2とOの化合によって生じる。その際、最初H2とOが独自に存在していたのであるが、それらがH-O-Hの状態になれば「それらはまわりの物体に異なって影響を与える
(6)ようになり、われわれの皮膚をぬらし、砂糖をとかし、火を消す。それらは以前の位置ではなされなかった作用である。この考えはどちらかといえば現代のゲシュタルト心理学のそれと類似している。それは夕立全体が降らなければごく小さな雨滴も降らないこと、あるいは一枚の羽も首やくちばしや尾など鳥全体を形成するすべてのものが一時期に存在しなければ存在しないこと、いいかえればいかなるものの部分も全体が存在する限りにおいてのみ存在しえるということ、を自らの主張の中心とする考えをもっている。
 だが厳密にはジェイムズの考えはゲシュタルト心理学とは異なっている。それは部分を機能的に作用するものとしてとらえる点においては一致しているが、しかしジェイムズによれば部分も全体も同じなのである。再びわれわれの心的状態についての考えに戻せば、より高級な心的状態はより単純な心的状態からなりたっているのでもなく、あるいはより高級な心的状態があるが故により単純な心的状態があるのでもなく、より高級な心的状態も又より単純な心的状態もともにあるのであり、そしてたしかにおたがいに異なった心的事実といわれるにせよ、それらはともに独自のやり方で同じものを理解しえる、とジェイムズは考えるのである。
 ここにわれわれはジェイムズの独自性をみる。まず意識の複合性から区別するためにゲシュタルト心理学的な観点にたつ。それは観念連合論者のそれが論理的にも実用的にも経験的事実を正しくつかんでいない抽象的単位のモザイク模様を色どるにすぎないからである。次いでジェイムズは全体から部分を説明するという観点を「全体」なるものが実はわれわれの単なるビジョンであり、いうなれば「多くのものが一時にわれわれの感官に作用する時にその感官に基づく一つの結果にすぎない」
(7)として批判するのである。そこにおいて主張されているのは「すべて all」はなく、ただ「各々 each」があるという考えである。この思考のパターンは意識の存在形態においても適用され、諸意識を統覚的にとらえる「意識」ないしは絶対的自我なるものはなく、ただわれわれの感官によって覚知されているところの意識群があるという考えに導いている。
 この両者の観点は全く相反する性格をもってお互いを否定しあっているようにみえ、はたしてそれらの接点においてジェイムズにおける意識の複合性が明確にうきぼりにされているかはその時点では大いに疑問とするところであるが、この論述においてジェイムズ自身の気質からくる一つの思考的立場だけははっきりとうかがえるのではないだろうか。即ちジェイムズが意識の複合性についての観念連合論者の精神-素材説を論駁するのに夕立や鳥の例をひっぱりだして見事にその責務をはたしながら、その例を不動のものにしなかったのは、その例が暗に示唆しているところの「われわれは絶対者の永遠の意識の領域の構成部分である」
(8)という考えへの気質的な反発心があったからなのである。
 この考えは第一章・第五節で詳細にのべられている如く、あきらかに絶対的観念論へと結びつけている。いいかえれば鳥や夕立の例はわれわれの経験とは疎遠な絶対者を招来しているのである。そしてこの場合、絶対者は気質的反発からうとんじられているのみならず、うとんじられる根拠を絶対者の考えの中にもっているのである。即ち一つは絶対者は精神-素材説の破綻をさけるために論理的に必要とされている点であり、二つは従ってそのような絶対者は独自の考え方をもってわれわれに対する点である。そこでは絶対者は意識の複合による集合的経験をそれを構成する部分と同じであるとしながら、他方ではその各部分とは全く異なった意識的経験をしうると考えられているのである。
 しかし一面それはジェイムズの論理的良心を苦しめたものであった。まずあきらかにそこでは部分と全体の非連続性が論理的に規定されている。しかもそれは同時にあきらかに矛盾的である。ジェイムズにとれば部分と全体はともに同じ経験であって、それは連続的につながり且つ同等の権利をもってわれわれの精神に位置している。にもかかわらず精神-素材説から導かれる絶対者の考えからは、全体それ自身は一つの経験であり、各部分それ自体は別の経験であり、両者はあいいれないにもかかわらず、きわめてアプリオリな形で経験はひとつであるといいえるのである。
 このように意識の複合性についての真のとらえ方はジェイムズの考える如く精神-素材説でもまた絶対的観念論でもない。いわばその接点に求められている。この二つの理論を否定したところに意識の複合性の実在的姿を求めるといった作業は、接点の具体性を積極的に支持しえない欠陥をもっているにせよ、ジェイムズの考えをほぼ性格に伝えているといわれてもよいだろう。なぜならばそれは常に背後において意識の内的自発性を、選択的作用の能力を、ほのめかしているからである。
 まず精神-素材説の寄木細工的な諸意識の複合状態の否定は諸意識が決して事実においてばらばらの存在ではなく、各々が結びつきあっていなければならないし、又その可能性を意識状態そのものの中にみようとする態度以外のなにものでもない。精神-素材説はその主知主義的性格から意識をばらばらの存在に解体してみたものの、事実との不整合にきづき、ただ論理としてそれら諸意識の結びつきを思いついたのにすぎず、ジェイムズのように事実をそのままに叙述したのではなかったのである。
 他方絶対的観念論、なかんずく一元論的な観念論における意識の複合性はジェイムズにとっては一つの魅力であったが、「経験の天上的領域における自己複合の考え」
(9)はおのずとわれわれの意識を拘束し、且つ意識の無知をあざわらうかの如き永遠の目撃者たる絶対者を想定するが故に否定されねばならなかった。絶対者の独りよがりは常にみるものとみられるものの不動の関係に安住し、われわれの意識における限界性をきめつけてしまうとするところにある。従ってジェイムズはある意味では事物が全体的観点からも考えられる必要を認めたが、それも部分的観点が無視されえないのと同じような態度からであり、全体的観点が異なった部分的観点としてみられる限りにおいてはそれは事実をより正しく把握するための一助として有用性をもっていたのである。
 いずれにしても意識の複合の状態の十分なる説明は精神-素材説からも、又絶対的観念論からも困難なのである。それは両者とも主知主義的原則にたっているからなのだが、逆に意識の複合性を肯定するなら、精神-素材説のような考えの単位ではないにしても、なんらかの単位が考えられていなければならないのではないか、と問われるのではないだろうか。
 これに対してジェイムズは次のように考えている。われわれの可感的経験のすべてはそれを直接的にうけとる限りでは知覚の不連続的な衝動によって変化するようにもみえる。従って単位とよばれるべき識別された事物が意識されるのは当然であるかもしれない。しかしながら「原理的にはわれわれの直接感じられる生の真の単位は主知主義的論理が固執し、それでもって計算している単位とは異なっているのである。」
(10)いいかえればこれらの真の単位はおたがいからきりはなされていないのである。それ故に仮に単位なるものが認められるにしても、それは重なりあっている状態においてである。概念的主義者にもうけいれられる考え方でいえば、経験とは一つの概念でもっていいあらわされるものではない。少なくとも二つ、そして実際にはそれ以上の概念をともに含んだものとしていいあらわされるのである。
 そしてわれわれが単位として感じとるのは、時間的におたがいからへだたった場合において、結果として単位であると認められるときだけにすぎない。あるいはその単位は次のようにもいえる。単位とは意識のエッセンスではない。それは意識のある場所なのである。即ち現存しているわれわれの意識野が知らず識らず 潜在意識にむかってぼかしこんでいくところの中心的場所なのである。そこではわれわれが単位をあとから命名しえても、その単位にははっきりした協会がみいだされないものとして考えられているのである。
 かくてジェイムズにおける意識の複合の状態についての定義は意識が境界線なき単位的性格をもつものであるとしてしかいいようがない。ひらきなおっていうならば、その説明そのものが意識の複合性をしめしているのである。そしてそれが経験の連続性とよばれるべき具体的内容を提供しているのである。それはまず実在的なものは絶対的に単純ではなくわれわれの考える以上にあふれ、のりこえ、変化しているのものとしてうけとられ、経験の最も小さな断片のいかなるものも、多元的に関係づけられた小型の内容豊富なものであることをわれわれに伝えている。従ってあのヘーゲル流にいえるところの「それ自身の他者」なる観念がジェイムズ経験論において絶対者ないしは絶対的精神の観念を導出することなく、なめらかに通用するのである。即ち「感覚的諸経験は内的にも、外的にもそれら『自身の他者』である。内的にはそれらはそれらの部分と一つであり、外的にはそれらはそれらの次の隣へと連続的に入りこむ」
(11)のである。
 この表現は主知主義的にとらえれば自己矛盾的であるが、ジェイムズからすればなんら矛盾でもなく、実在の姿をありのままみた結果のいいまわし方にすぎない。主知主義にとっては自己同一性だけが問題となっているのであり、それ自身の他者なる考えを認めるためには絶対者をよんできて、その矛盾をもつつみこんでしまうという離れわざをやってのけねばならない。その結果矛盾は解決されたようにみえながら、実は未解決のままに無化されているにすぎないのである。この矛盾が生じるのは「概念的ないしは論証的形式が実在的形式にとってかわっていること」
(12)からである。
 というもののわれわれはここでジェイムズの経験の連続性とよぶところの具体的内容がヘーゲルの「それ自身の他者」なる言葉を借用している点に驚かされる。しかしながら「それ自身の他者」であることの認識に際し、一方が絶対者の作用によって、他者がわれわれの直接の感覚の作用によって認められている点において根本的に違っている。
 ジェイムズにおける「それ自身の他者」なる表現は感覚的な流れの一片が隣りあっている一片と合一する有様を説明しようとして使われているにすぎないのであって、それによっていわば経験の一つの部分といわれるものが決して一つの実体といわれえず、その部分といえども部分であって又部分ではなくなるという流動性をいいあらわそうとしたのである。そしてこの経験の連続性は単に抽象的に存在しているのでないことは今までの論述からもあきらかである。なぜならば経験とはあの純粋経験における世界から導かれるわれわれの可感的対象、即ちわれわれにみえるがままの対象以外のなにものでもないからであり、さらにその上に、経験される連続的推移の関係も又われわれの経験を認識させるところのものとしての具体性をおびているからである。われわれはすでにその証左を活動の経験の観念からえているのである。
 われわれは本節を終える前にこの経験の連続性に関連して忘れてはならない重要事を付言しなければならない。それはジェイムズにおいては経験の連続性が理解できるのはあくまでも個人であり、しかもその個人は身体的機能をもち、内的な活動をその身体的活動において具現するという点である。われわれはこれまでジェイムズの意識あるいは考えの流れについて考察してきたが、ジェイムズ自身がそれを主張しえる背景には次のような一つの信念があったのである。「身体的変化によってともなわれ、あるいは従えられない心的変化は存在しない。」
(13)(四)
 この命題を卑俗に解釈すれば、われわれの活動においては行為という名で冠せられる諸現象を重視しなければならないの意になるであろうが、少なくともジェイムズの真意は「目的のためにならされたり、手段の選択をしめしたりする行為以外のものは精神の明白な表現とよばれえない」
(14)点にあった。いいかえればここにも身体それ自体が人間の自発性に大いに関係し、重要な役割をはたしていることが強調されている。それは活動の感じがまさに身体的感じと同じであると考えるジェイムズの考えからも容易に想像されるところである。
 その意味で考えの流続性ないしは意識状態の流動性がわれわれの経験の連続性として位置づけられるためには、この身体的活動における感じ及びその変化の感じがプラスされればよいのだといえるだろう。それが前節における主観主義的傾向をさけ、意識ないしは考えの存在が客観的なわれわれの経験的事実としてうけとられる条件を与えてくれているのである。従ってわれわれは前節及び本節から総合して、個人として存在する身体をもった人格的人間の生のあり方を端的に指摘しええるのである。「われわれの個人的歴史の各々の内においては主体、客体、関心、目的は連続的であり、又連続的であるかもしれない。個人的歴史は時間における変化の過程である。そして変化それ自身は直後に経験される事物の一つである。」
(15)この表現はジェイムズ風のヒューマニズムの吐露である。なぜならばジェイムズは経験それ自体を流れの中においてみることによって自立的存在への意味づけをしているからである。
 以上によってジェイムズがヒューマニズムの本質的な役目をはたす経験について『真理の意味』の中で次のようにいっているのをわれわれは忘れてはならないだろう。「われわれの経験の一つの部分はそれが考えられうるいろいろな姿のどれにおいても、それをあるところのものにする他の部分によりかかるかもしれないが、全体としての経験は自己でたち、なにものにもよりかからないのである。」(この斜体化は論者による)

TOPへ  SPWJ目次へ 注へ